エリート商社マンになるも、「世の中を変えることがしたい」と転身を決意

京大法学部→商社マン→フリーター→市役所職員→市役所職員+大学院生→哲学者という異色の経歴を持つ、小川仁志さん。なぜ彼はそんな紆余曲折を経てきたのだろうか?
またそこまでして貫きたかった、ブレない軸とはなんだったのだろうか? そんな彼のキャリアパスとは?
前編では、そんな一連のキャリアを振り返ってもらい、後編では、小川さんが大切にしているという「ワーク・ライフ&スタディバランス」について語ってもらった。
――京大法学部時代は、どのような学生生活を送っていたのでしょうか?
多くの人がそうであったのと同じく、僕も受験で入ってきたというだけでした。だから、勉強に関しては、与えられたものをこなすだけ。受験勉強の延長線上で、主体性なんてありませんでした。その上、大学の勉強というのには、受験という目標すらない。無意味に思えてしまっていましたね。
将来についてどう考えていたか? これまた多くの人がそうであったのと同じく、僕も就職活動期になるまで、なにも考えていませんでした。で、僕の場合は「自分の性格――バイタリティや社交性――が活かせる仕事がいいな」と思うようになりまして。1日デスクに張りついていたりっていうのとは違って、コミュニケーションを仕事にしたいと思いました。そして、先輩たちなどに話を聞いて、商社というのが合っているのではないかということで、伊藤忠商事に入社しました。
――そこで、のちの人生をも左右するターニングポイントがあった、と。
入社2年目で台湾駐在となり、その後、北京に渡りました。実際に商社に入って、コミュニケーションを仕事にする、という点では間違いはありませんでしたが、どちらかというと、商社マンのコミュニケーションというのは、利益を上げるためのもの。台湾、北京では、それと正反対のものを見せつけられました。「利益追求のために奔走するのではなく、社会をよくする、自分たちの地位を向上させる、政治を変える」――同じコミュニケーションでも、そういう方向性もあるんだって気付かされたんですね。
具体的にどんなものを見てきたかというと、台湾では、はじめて野党の虐げられていた人たちのリーダーが要職に就いたりと、まさに革命というか、日本の政権交代どころじゃないわけですよね。そんななかで、僕も留学生代表としてテレビに出て、「台湾は迷える国だ」なんて発言して、翌日から「昨日の日本人、見たぞ」っていわれたりと巻き込まれていったわけです。これはアツいな、と。
そのあと渡った北京では、台湾とは打って変わって、今度は動きがなにもないわけです。天安門なんかも憲兵がいて、絶えず人々にプレッシャーをかけていて、街の人たちもなにかに抑えつけられている。天安門というのが象徴的でしたね。それで、余計に権力や虐げられている人たちのことを考えるきっかけになったんですね。
それで、自分がコミュニケーションをして貢献したかったのは、お金儲けではない。利潤を度外視して、もっと世の中を変えていくことがしたい。そう思って、帰国後、すぐに会社を辞めました。(次ページへ続く)



